初めての町は 知らない大人でいっぱいだった。
見上げるとスーツを着たおじさんおばさんが忙しそうにさかさかと歩いている。
空はどんよりと灰色で、今にも雨が降り出しそうだ。
ぼくは隣にいるケンタにはなしかけた。
「ねぇ、ケンタ。これからどうしよっか」
初めて来た知らない町の真ん中に放り出されて、ぼくは心細くてどうしようもないって言うのに、
ここまで連れてきた張本人は悪びれもせずそっぽを向いたままだ。
ぼくの声なんか聞こえていないかのように、道の向こうを見つめるだけで全然返事なんかしてくれない。
・・・いつもそうだ。
ケンタはぼくよりずっと年上のくせに、こんな時ちっとも頼りにならない。
だからいつもぼくがケンタを助けてあげなきゃダメなんだ。全く。
だけどぼくはまた不安になった。本当にどうしよう。
初めて来たこの町には知ってる場所も人も何にもなかった。
これからどこに行けば良いのか、何をすれば良いのかも全然わからない。
ぼくはしょぼくれてケンタの方に近づいていった。
その時、頭の上から女の人の大きな声が降ってきた。
「ぼく、どうしたの?」
見上げると、スーパーの袋をいっぱい抱えたでっかいおばちゃんが、
ぼくのすぐ傍にママチャリを止めてぼくの顔をのぞきこんでいた。
ぼくと目が合ったおばちゃんがにやっと笑ったから、ぼくとケンタは一緒に震え上がった。
そんなぼくらの様子に気づいた様子もなく、おばちゃんは笑ったままの顔を近づけてくる。
「どうしたの?迷子?おばちゃんと一緒におまわりさんのとこ行く?」
顔が近づいてくる分だけおばちゃんの迫力もでかくなってくる。
思わずケンタと一緒に後ずさりしながら、ぼくは慌てておばちゃんに向かって叫んだ。
「だ、大丈夫。ぼくらおばあちゃんの家に行くの。ぼく、ちゃんと道知ってるから大丈夫っ。」
するとおばちゃんは残念そうに、
「あらそぅお?じゃぁ、気をつけてね。」
と言って離れて行ってくれた。
だけどおばちゃんが離れていくと、またぼくらは不安になった。
まわりにはやっぱり知らない人しかいなくて、みんな自分のことに一生懸命で…。
ぼくやケンタのことを気にしてくれる人は、あのおばちゃん以外ひとりもいない。
今頃になってあのおばちゃんの笑い顔は優しかったような気がしてきた。
あのおばちゃんにはああ言ったけど、実際どこに行けばいいのかぼくは何にも知らない。
ぼくはただ、最近ケンタに元気が無いから、せめてケンタの行きたい所にまで付き合ってあげようと思っただけだから。
だからここまで連れて来たのはケンタだし、秘密主義のケンタはどこに行きたいのかぼくにすら全然教えてくれない。
だからぼく一人が不安でしょうがないんだ。
責めるようにケンタを見てみるけど、やっぱり自分だけ平然としてる。
ぼくはだんだん腹が立ってきた。
ケンタなんか放っといてさっきのおばちゃんと会った所まで戻ってみようかと真剣に考えた。
あのおばちゃんならきっとガハガハ笑いながらおまわりさんのとこまで連れてってくれるはずだ。
と、その時急にケンタがぼくの手を引っ張って走り出した。
本当に突然走り出したから、ぼくはすごくびっくりして急いでついていった。
さっきまで手前に見えてたポストが段々小さくなっていく。
その先の曲がり角でもケンタは迷うことなく左に曲がる。
まるで最初からその道を知ってたみたいだ。
「……何…?……こっち…行くの?」
ぼくが息も切れ切れに聞いても、ケンタはやっぱり何も答えずぼくを引っ張って走っていく。
ぼくはしょうがないなぁと思いながらもケンタについて走り出した。
だってケンタのわがままなんてどうせ昔からのことなんだし、もうとっくに諦めてる。
ぼくはため息を一つ吐いて、ケンタが引っ張るのに任せながら後ろをついていった。
それにしても不思議なのは、ケンタもこの町には来たことがないはずなのにも関わらず(少なくともぼくが生まれてからはない)、
ちっとも迷わずに走っていくことだ。
まるでいつもこの町に遊びに来てるみたいだ。
スーパーとか郵便局が並んでいたところを過ぎて、住宅地に突入してもケンタのスピードは衰えない。
普段はぼくに頼りっきりのくせに、こういう時だけ年の差を思い知らされて嫌になる。
こっちの都合もちょっとは考えて欲しいよ。
とうとうぼくが息を切らして立ち止まってしまうと、ケンタはぼくを振り返って、仕方ないなぁ、という風に立ち止まる。
さすがにケンタも息がちょっと乱れてるけど、ぼくに比べると全然大したことない。
やっぱりケンタは大きいんだ。
ぼくは近くにあった壁にもたれかかりながら「ずるいよなぁ」と呟いた。
ふと顔を上げると自販機が見えたのでスポーツドリンクを買った。
ケンタがちょっと欲しそうにこっちを見ていたけどぼくはあげなかった。
だってケンタは自分勝手すぎるから。
ぼくには何にも教えてくれないくせにどんどん引っ張って行っちゃうから。
ぼくはケンタから顔を背けて一気にジュースを飲み干した。
聞こえよがしに「ぷはぁっ」と息を吐いてみる。
ケンタはムッとしたような顔をしたけど、ぼくはそれには構わずにケンタに寄っていって声をかけた。
「お待たせ。じゃ、行こっか」
ケンタは何か言いたそうにこっちを睨んだけど結局何も言わずに歩き出した。
言いたいことがあるなら言えばいいのに・・・。
ケンタは住宅街を更に奥へと進んでいった。
奥の方には結構古い、っていうかもう後一年も持たなさそうな昔風の家が並んでいた。
さっきの住宅街よりは静かだったけど、おばあちゃんやおじいちゃんが庭で植木の世話とかしてたからあんまり寂しい感じはしなかった。
ぼくとケンタが走っていると、見ず知らずのおばあちゃんが「こんにちは」と頭を下げてくれた。
ケンタは無視してたけど、ぼくは走りながらちょっとだけ頭を下げた。
見知らぬ住宅街を右へ左へ何度も折れる。
もうどこをどう来たのか全く覚えていない。
田舎道を走り、歩道を通り、空き地を駆け抜けた。
ぼくの体力は、もう限界に近かった
だけど、ただひたすら走り続けるケンタの真剣な様子には
何か大事な・・・切羽詰ったものがあるような気がして、
ぼくは声をかけることもできずに、ただケンタの背中を追いかけた。
走り続けながら前を見ると、少し先で道が途切れている。
――ふと、かすかな水のにおいを嗅いだ気がした。
そのまま真っ直ぐに道を進んでいくと、目の前に小さな川があった。
後何年か待ったら、ぼくでも軽々と飛び越えられそうな、狭い川だ。
川の両側には緑の河原が広がっている。
ケンタはようやく歩調を緩めた。
ぜいぜいと荒い息を整えながら、ぼくらはその河原を見つめてしばらく立ち尽くしていた。
耳を澄ませると、さらさらと微かに水の音がする。
爽やかな風がぼくの汗ばんだ顔を撫でていく。
ぼくは大きく一回深呼吸をした。
水の匂いの中に、草の匂いも混じっているのを感じる。
いつまでそうしていただろう……。
ケンタがゆっくりと河原に向かって歩き出した。
相当にむちゃくちゃなスピードで飛ばしてきたからか、その様子はむしろよろよろしているように見えた。
川のほとりまで辿り着くと、まるで力尽きたかのようにペタリと河原に座り込んでしまった。
かなり疲れているのだろう。
だけどその後姿はとても満足げだった。
「ケンタ?どうしたの。」
ぼくがそう尋ねる声にも全く反応せずじっと座っている。
しょうがないなぁ、と呆れながらもぼくはケンタの傍まで寄っていった。
それからケンタの顔を覗き込んで……。
ぼくは河原に座り込んで小川を眺めながら、ふと母さんの言ってた話を思い出した。
「ケンタはね、昔母さんが住んでいた町の河原で拾ったの。
お父さんとの結婚が決まってから、こっちに住むことに決まったんだけど、やっぱり故郷を離れるのが寂しくって…。
最後に母さんのお気に入りの場所を散歩してたの。
その中でも一番好きだった小川があってね、行ってみると『キャンキャン』って声が聞こえてきたから、なんだろうって思って近づいたのよ。
そしたらダンボールの中に小さい赤ん坊がいたの。
母さんが父さんと一緒に近づいて行くとこっちによちよち歩いて来るから、ついつい抱っこしちゃって。
気づいたらそのまま家に連れてきちゃってたのよね。」
そう言って母さんは優しく微笑んだんだ。
――そっか。ケンタは自分の故郷に帰って来たんだ。
ぼくは頬を伝う涙を感じながら、ぼくは自分の左側に目を向けた。
茶色いおじいさん犬が一匹、クローバーの上に横たわっている。
昔の家族の匂いでも見つけたんだろうか。
その顔は幸せな夢を見ているみたいだった。
ふと見上げた空には、一筋の天使の梯子が下りていた。